2017夏 新潟より“SLばんえつ物語号”にて会津若松を目指す
9月9日,朝7時過ぎ.
8月下旬から東京に帰っていない.
8月14日から18日まで青森に帰省していた私は,東京で19日,20日と僅かな時を過ごし,翌日,再び東京を出た.
8月21日は仙台,22日は山形,23日は新潟と点々とし,そして24日から翌月8日まで,新潟のとある自動車学校で免許取得のため合宿をしていた.
大学4年生でありながら,未だに自動車免許を持っていなかった.
一度仮免に落ち,2日の延泊を経たのち,9月8日に無事卒検に合格した私は夕方,自動車学校を出て,新潟駅前のホテルを予約し,1泊した.
そうして,9月9日に至る.
2週間の間,田んぼと田んぼの間に挟まれた宿舎に閉じ込められていた私は,地方都市のど真ん中にいた.
土曜日だった.
行きは高校の友人2人と一緒だったが,そのうち1人は私と一緒に仮免に落ち,先に卒業したもう1人はすでに東京に帰っていた.
一緒に落ちた友人とは一緒に卒業することができた.
その友人と一緒のホテルに泊まったのだが,今日,これから東京で用事があるようで,朝早くチェックアウトを済ませ,始発の鈍行で東京へ帰ってしまった.
別に1人そのままホテルで寝ていても良かったのだが,自動車学校を卒業し,晴れて自由の身となった私は開放感に満ちていた.
起きて,今日1日どこかへ出かけよう,そう思ったのだった.
東京へ帰る友人をホームで見送った後,駅前のヴィドフランスで朝食を食べた.
地方都市の駅ビルに必ずと言っていいほど入っているヴィドフランスは,どこか私を安心させた.
ひとまず新潟駅の周辺を散策することにした.
新潟駅には8月23日にも降り立ったのだが,その日着いたのは夜遅くでホテルに泊まるだけだった.
新潟で観光らしい観光をまだ1つもしていなかった.
徒歩圏内で観光できるところを探した結果,萬代橋を見に行くことにした.
スーツケースに3週間分の荷物を詰め込んでおり,移動が大変だったが,萬代橋まで歩いた.20分か30分かかった.
萬代橋が何のために存在し,そして,なぜ観光資源となっているかについて私は何も知らなかった.ちなみに今調べてもあまり良くわからなかった.
着いて,橋を見て,もと来た道を引き返した.帰りはバスを使った.
再び新潟駅前にいた.
新潟駅前ですることはもうないように思えた.
余った青春18きっぷでどこか行こうかと思ったのだが,中々最適解が見つからない.
ヴィドフランスに戻り,時刻表をペラペラめくり,いろいろ考えた.
結果,とりあえず,磐越西線経由で東京に戻ることにした.
途中の駅で降りて気ままに帰ろう,そう思った.
ホームに向かう最中,
電光掲示板に目が行った.
これだ!!
磐越西線で土休日に運行されているSLばんえつ物語号.
ちょうどよかった.快速なら,指定席券を買えば青春18きっぷを使って乗ることができる.
急いでみどりの窓口に向かう.
そこそこ並んでいたため,10分ほど待つ.
列車があっても,指定席に空席がなければ,全車指定席のばんえつ物語号には乗車できない.空席を祈りながら列に並んだ.
指定席券はあった.後々知ったことだが,ツアー客用の貸し切り車両のおこぼれ席だった.しかも窓際.ラッキーだった.
時間までNEWDAYSで食料を買い込む.
なにせ終点の会津若松までゆっくり4時間かけて向かう列車だ.
車内販売もあるが,一応念のため.
青春18きっぷで改札を通って,ホームに向かうと,しばらくして入線してきた.
EF81がばんえつ物語用の12系客車を牽引してきた.初めて見る.
奥にC57がいる.先頭車両に向かう.
ワクワクしてきた.ワクワクして写真に人の腕が入り込んでるのもわからなくなってしまった.
乗車.
落ち着いた車内だった.
まもなく新潟駅を発車した.
ちなみに,このとき車両には私の他に3人しか乗っていなかった.
ハイケンスのセレナーデとともに車内放送が流れる.
しばらくして新津駅に到着.
新津駅では,大量のツアー客が私の乗る車両に乗車してきた.
またたくまに席は埋まり,賑やかになった.
新津駅では駅弁の立売がある.私も買った.
駅弁の立売は初めての経験だった.良い光景に出会えた.
しかし,新津駅のホーム標は,行き先がX字になっていて面白い.信越本線と羽越本線に,磐越西線が通っている.
新津駅を出発したSLばんえつ物語号は,途中駅で様々な催しが行われる.
ホーム上で行われるイベントには,今回どれも参加しなかった.
走行中の車内でも,参加型のじゃんけん大会などが行われた.
これには参加したが,全てダメだった.指定席券を取ることで運を使い果たしたのかもしれない.
それ以外は,車内でずっと車窓を見て座っていた.時には寝落ちた.
車内販売でビールを買いに席を立ったのと,お手洗いに行ったことを除いて,ずーっと座っていた.
気付いたら,終点,会津若松駅に着いていた.
ただ,乗って,車窓を見るだけで非日常感を存分に楽しむことができた.
会津若松駅からは,残りの郡山駅まで普通列車の磐越西線に引き続き乗車.
実に3週間ぶりの東京だった.
将来,新潟駅の高架ホーム完成により,SLばんえつ物語号は新津駅発着となるらしい.*1
今回,新潟駅を発車するこの列車に乗ることができ,いい経験となった.
しかし,全体的に,2週間分の合宿の疲れのため,思うように体が動かず,見て回れなかった.
会津若松では若松城も見たかったのだが,列車の時刻の関係もあって断念した.
次回,訪れる機会があれば,立ち寄りたい.
以上.
”2017秋 長瀞紅葉おさんぽきっぷ” -長瀞と秩父-
前記事の続き.
長瀞駅に降り立った.時刻は10時半.
有人改札のため,一人ひとり手作業で改札業務をする駅員.ご苦労様.
この時,2つの改札が用意されており,1つは通常改札.紙の切符を見せて改札を通る.
もう1つがSuicaやPASMOなどの交通ICカードを利用してこの駅まで来てしまった乗客のための改札.秩父鉄道ではSuicaやPASMOを使えないため,精算が必要.
写真の駅舎左側の改札が通常改札で,私はここから改札を出た.改札まで辿り着けばスムーズに出ることが出来た.
駅舎中央の人だかりが出来ている奥にICカード専用の精算改札がある.
言わずともおわかりだろうが,ICカードを使って来ることはおすすめしない.駅から出るのだけで一苦労である.
降りたホームからは,線路をまたいで改札に向かう.
改札を出て,まず駅前の観光案内所で情報収集をすることにした.
いつものことながら,何も予定を立てていなかったからだ.
行き当たりばったりの旅も面白いものだが,こうも毎回だと流石に考えようである.
幸い,駅周辺には徒歩圏内の観光地が点在していた.
まずは観光客の流れに沿って,宝登山神社を目指すことにした.
緩やかな坂を登る.
飲食店が並ぶ参道で,活気も伝わってくる.喫茶店が思いの外多かったのが印象的だった.
10分ほど歩いて宝登山の麓に到着.
参拝.
秩父神社,三峯神社とともに秩父三社として数えられているらしい.
秩父神社は何度か訪れたことがあるので,あとは三峯神社だけになる.
アクセスが難点であるが,パワースポットとして有名な三峯神社.いつか行こう.いつか.
山麓なだけあって,傾斜が激しい.
ちょっと外れると,人気も少なくなり,神秘的な光景に出会えた.
駅に戻る.
そろそろお昼にでもしようかと思ったのだが,ふと,あることを思い出す.
SLパレオエクスプレス.
まだ定刻より時間はあるが,空腹を我慢して,見物に行くことにした.
だいぶ待った.諦めてご飯を食べに行こうかと思ったところで,ようやく来てくれた.
至近距離で走る蒸気機関車は初めてだ.鼓膜が破れるかと思うぐらいの轟音と汽笛だった.
見物が終わり,いよいよ空腹を満たすときだ.
お昼ご飯はこちらで頂いた.
ざるうどん.写真を取るのを忘れた.美味しかった.
お腹も満たされ,再び動く気になったところ.
長瀞駅を横目に,踏切を渡り,岩畳を目指す途中にある岩畳通り.
長瀞の中で最も賑わっている通りだった.
何かお土産を買おうとも思ったが,持って歩くのも面倒なのでやめた.
そのまま通りを突き進む.
急に視界がひらけた.
おお,すごい.長瀞渓谷.
荒川を俯瞰し,目下には岩畳が連なる.
紅葉も若干時期はずれているが,それでも綺麗.
そしてすごい観光客の数.ライン下りの列もある.
ひとまず荒川沿いに岩畳を突き進む.
この大自然のなか,岩畳を進む人の流れができていたのにちょっと笑ってしまった.
ここら一帯は,長瀞玉淀自然公園に含まれている.
しばらく歩いていたのだが,一向に先が見えない.
かなり長い距離を歩けるらしい.
時々,ライン下りの舟が通り,風景が動く.
岩畳を1時間ほど歩いて,上長瀞駅の近くまでやってきた.
岩畳を突き進むと月の石もみじ公園に出る.上長瀞駅からほど近い.
紅葉の季節ということでライトアップなどの催しが行われているらしい.
この時はまだ日が出ていたので紅葉を見るだけとなった.
近くには埼玉県立自然の博物館があり,休憩がてら入館.
埼玉県立自然の博物館は,秩父を地学的に学べる施設.
以前,ブラタモリで長瀞編を放送していたのを見たので,中々面白かった.
秩父一帯が海に覆われていた時代をわかりやすく知ることができた.
博物館を出た頃には日も傾き始めていた.
せっかくのライトアップも見たかったのだが,それまではちょっと時間が空きすぎるので,上長瀞から列車に乗り,移動することにした.
「え?ライン下りは?」という声も聞こえてきそうである.
しかし,今回ライン下りはしなかった.またの機会に.
ちなみに,これより写真を殆ど撮っておらず,文章がメインになる.ご了承いただきたい.
上長瀞駅に着いた頃,ちょうどSLパレオエクスプレスが再び姿を表した.
今度は熊谷行きらしい.颯爽と過ぎ去っていった.
この時乗った列車は,行きの池袋発,長瀞行き直通列車の上り,長瀞発,池袋行きだった.
上りは,15時22分と,16時25分に長瀞を出る.乗車したのは15時22分の列車だった.
秩父駅と聞くと,西武秩父駅とほど近いところにあるような駅だと思われがちであるが,全く違う.
前記事で説明したとおり,西武秩父駅の秩父鉄道の最寄りは御花畑駅であり,秩父鉄道秩父駅は御花畑駅から長瀞方面に一駅先の駅である.
この2つの駅を徒歩で歩くとすると,20分ほどかかると思われる.注意されたし.
秩父駅で下車した理由は1つ.
武甲酒造で地酒を購入するためである.
武甲正宗の純米酒を購入.今夜が楽しみである.
さて,おみやげも買い,時刻は17時になろうかという頃.
せっかくなので,秩父神社にもお参りしていこうと思い,秩父駅に戻り,それから線路沿いに歩くことにした.
何度か訪れているため,記憶を頼りに向かった.
程無くして到着.お参りをする.
いよいよ辺りは暗くなり,歩くのも疲れてきた.
旅と言ったら締めは温泉.
いろいろ調べて,ちょっと遠いが横瀬駅から徒歩10分のところにある武甲温泉に行くことに決めた.
せっかくフリーきっぷを買ったのに,あまり使っていないのはこの際もう問題ではない.
西武秩父駅から秩父駅一帯は人通りも多く,街灯もあり明るかったのだが,一駅となりに来るだけで,街頭も一気に少なくなり,人気は失せる.
真っ暗な道を歩くこと10分ちょっと,武甲温泉に到着.
1時間ほどお湯に浸かり,疲れを癒やした.
湯船の中で,あと残り少ない予定を立てる.
時刻は18時半あたりか.
終電は,自宅の西武線の最寄りで降りればいいわけだから,かなり遅くまである.
ご飯は何処で食べようか.
などと考え,結局.
戻ってきた.
横瀬駅に向かう際,西武秩父駅の駅舎が新しくなっていることに気づいた.
駅舎には飲食店がいくつか入っていて,そこで夕食をいただこうという考えに至った.
ついでにお酒も飲もうと企む.
食事とお酒を頂いた.
お酒は,秩父の地酒代表,「武甲正宗」と「秩父錦」の二銘柄に,今回が初めて飲む「小次郎」(こちらも地酒)と,期間限定で宮城のお酒「天井夢幻」の飲み比べセットを頂いた.
なぜ宮城なのかという疑問も沸かずに頂いた.飲んだ.
ごちそうさまでした.
あとはもう帰るだけである.店を出てすぐの改札から飯能行きに乗り,飯能で池袋行きに乗り換え,帰宅した.
最後はグダグダになってしまったが,以上で長瀞紅葉おさんぽきっぷを使った日帰り旅行はおしまい.
久しぶりに歩いた1日だった.
1つ心残りなのが,秩父鉄道の車両に一度も乗らなかったことだ.
旧東急の車両などに乗ってみたかったが,これもまたの機会に譲ることにしよう.
紅葉の時期からはだいぶ経ってしまったが,前記事の冒頭に書いた「秩父フリーきっぷ」を使って,秩父,長瀞,そして今回は訪れなかったが三峰に旅してはいかがだろうか.
以上.
”2017秋 長瀞紅葉おさんぽきっぷ” -池袋から長瀞へ-
西武線沿線から芦ヶ久保駅までの往復に加え,芦ヶ久保駅から西武秩父駅までと,秩父鉄道線御花畑駅から長瀞駅までの区間が乗り降り自由となる期間限定きっぷだ.
期間は10月28日から11月30日まで.価格は発駅に依るが,池袋駅からなら,2000円.
西武線沿線に住んでいながら,長瀞には一度も足を踏み入れたことがなく,せっかくなので今回,このきっぷを使ってみた.
有効期限はもう過ぎているが,平気で本記事でまとめてみる.
(実を言うと,2000円にちょっと足すだけでフリー区間が三峰口駅まで伸び,対象施設が割引になる”秩父フリーきっぷ”が通年発売されているのでそっちのほうが使い勝手は…多分いい.本記事はその参考がてらに…)
11月19日午前7時半,池袋駅.
前述の通り,私の自宅は西武池袋線沿線なわけだが,わざわざ朝早く起きて一度池袋駅まで逆戻りをする.その理由は今から説明する.
まず,この路線の運行形態について.
西武池袋線は,名称上は東京都豊島区池袋駅から,埼玉県飯能市吾野駅までである.
しかし,運行上は途中の飯能駅で分離される.
飯能駅からは吾野駅を経由し,西武秩父駅までの西武秩父線に直通するかたちで,
「池袋駅-飯能駅」と「飯能駅-西武秩父駅」という分離した運行形態を取っている.
このため,池袋駅と西武秩父駅を一本で繋ぐ特急を除くと,基本的に池袋駅から西武秩父駅に向かう際は飯能駅で乗り換えをしなければならない.
一旦話を戻して,今回の目的地は長瀞である.
長瀞駅に向かう場合,西武秩父線西武秩父駅から秩父鉄道に乗り換える方法と,JR高崎線熊谷駅から秩父鉄道に乗り換える方法が存在する.
どちらも都心からのアクセスは可能だが,西武池袋線沿線住民にとっては前者を選ぶのが自然だ.
この場合,通常は終点の西武秩父駅で下車し,一度ホームを出てから,徒歩で秩父鉄道御花畑駅に向かい,長瀞駅方面の列車に乗る必要がある.
この,西武秩父駅と御花畑駅の間は,徒歩圏内なものの,それでも若干離れているため中々めんどくさい.
・特急を使わない場合,飯能駅での乗り換え
という2点が問題として挙げられる.
ここまで十分に説明したからには,もう薄々お気づきではないかと思うが,それらの問題を解消する列車が存在する.
土休日の7時5分と8時5分,池袋発,長瀞・三峰口行きの快速急行列車である.
4両+4両の8両で池袋を出発し,途中,西武秩父駅一駅手前の横瀬駅にて,4両は長瀞行きに,あと4両は三峰口行きに分離される.
分離後に横瀬駅を出ると,長瀞行きは御花畑駅に,三峰口行きは西武秩父駅に停車し,それぞれ別方向へ舵を切る.
なお,西武池袋線内は急行として,西武秩父線,秩父鉄道線内は各停として運用される.
この列車は観光列車としての側面が強く,列車はボックスシートの4000系が充てられる.
西武池袋線,西武秩父線,そして秩父鉄道を直通するこの列車は,非常に使い勝手が良く,特急よりこちらを選ぶメリットが多いように感じられる.
時を戻して,日曜の池袋駅.
7時5分の列車には乗らず(若干寝るのが遅かった),1時間後の8時5分の列車に乗ることにした.
一度改札を出て,長瀞紅葉おさんぽきっぷを券売機で購入し,そのきっぷで改札を通る.
乗車時間は2時間ちょっと.改札内の売店で食料を買い込む.
ホームへ向かうと,既に多くの人がホームで列車を待っていて,中々人気の列車だということを知る.
座れるかなぁ,と不安に思いながら列車を待ち,8時ちょっと過ぎに入線してきた.
池袋でこの白い車体を見ること自体殆どなかったので,中々テンションが上がる.
無事,窓側の座席を確保できた.
重装備の登山姿の乗客もちらほらあり,多くは軽装のハイキング客.
車内は8割ぐらいの着席率といったところか.
間もなく発車し,途中駅にはほとんど止まらず,西武池袋線内を駆け抜ける.
石神井公園駅やひばりが丘駅で降りる姿もあり,普段使いとして利用する人もいることに気づく.
横瀬駅では長時間停車.切り離しのためである.
向かいのホームには40000系が停車していた.こちらの車両の10倍だ.
さて,いよいよ秩父鉄道線内に突入する.
横目に西武秩父駅を見つつ,通り過ぎるのはなんとなく快感だ.
分離した三峰口行きに思いを馳せる.
乗客はほとんど降りず,このまま長瀞まで共にするのだろうか.この列車の存在意義が十分あることを再確認した.
と思ったら,長瀞駅の一駅手前,上長瀞駅で半分ぐらいが降りてしまった.
あとで知ったことなのだが,あの有名なライン下りにはここで降りても行けるらしい.
終点長瀞駅に到着した.
疲れたので,後の様子はまた別記事にて.
このあとは,宝登山神社を観光したりSLを見物する.他にもいろいろ.
以上.それでは.
(青森帰省の記事も最後まで書けておらず,申し訳ないです.時間見つけていつか書き遂げます)
青森 2017夏 -3日目 ワ・ラッセ-
八甲田丸の記事から時間が空いてしまったため、これまでの紹介から。
青森に帰省(正確には帰省ではないが)して3日目以降の出来事をまとめている。
これらにも目を通してもらえたら幸いだ。
それでは、3日目の八甲田丸を訪れた後からまとめていく。
"じゃわめぐ"という津軽弁がある。
標準語で、"血が騒ぐ"という意味だ。
私は青森県出身でも、青森県在住でもない、ただの県外の人間である。
津軽弁は聞き取れても、話すことはできない。
幼いころから知っていて、愛着もある土地ではあるが、やはりただの一東京人に過ぎない。
ただ、どうしても、ねぶたの話になると、そんなことを言ってられなくなる。
ねぶた祭が近づくと、"血が騒ぐ"のではなく、"じゃわめぐ"。
"ねぶた成分"を摂取したくて堪らなくなるのである。
東北三大祭りの一つに数えられる「青森ねぶた祭」は、毎年8月2日から7日まで行われる。
高校生になるまで、夏休みの半分以上を青森で過ごしてきた私は、毎年必ずねぶた祭に参加していた。
2日から6日までは市街を練り歩く通常運行、7日の最終日にはねぶたは船に乗せられ、海の上で運行する。
海上運行と同時に大きな花火も打ち上げられ、まだまだ8月の上旬だというのに、これを目の当たりにすると、夏も折り返し、日に日に季節が秋に近づくという気がする。
私が青森に帰らなくなる前までは、ねぶた祭を見るためにはこの8月2日から7日まで青森にいるしかなかった。
通年でねぶたを見ることができる「ねぶたの里」という施設も存在したが、市街地からは遠く、昔連れてこられた覚えがあるがほとんど記憶にない(今調べて知ったのだが、ねぶたの里は2013年に閉業したという)。
2011年に開業した「ねぶたの家 ワ・ラッセ」は、駅から徒歩圏内でねぶた祭に触れることのできる観光施設だ。
このワ・ラッセのおかげで、ねぶた祭の時期を外しても通年ねぶた祭を楽しむことができるようになった。
今回の青森帰省は、惜しくも8月の中旬となった。ねぶた祭りの時期からは外れてしまう。
正直、ねぶた祭に合わせて帰省の予定を組みたかったのだが、スケジュールが合わなかったのだ。
去年も同じようにねぶたの時期に帰れずじまいだった。今年こそはと思ったのだが、やはり8月の上旬というのは難しくなってしまった。
こういうとき、私は少しでも"ねぶた成分"を摂取するため、このワ・ラッセに入り浸る。
ワ・ラッセでは、ねぶた祭の歴史を学ぶことができる施設である。
その上で、その年に賞を受賞したねぶたが数台展示される。
基本、ねぶたというのはねぶた祭が終わると解体されてしまう。それをここで保存し、その年にねぶたを見ることができなかった観光客向けに公開している。
また、ワ・ラッセでは、ねぶた展示のみではなく、1日に数回、ねぶた囃子の実演が行われる。
これがまた素晴らしく、生のねぶた囃子というのはどこでも聞けるわけではないため、非常に貴重な体験になる。
正直な話、本番のねぶた祭以上の臨場感には到底及ばない。だが、それでも聴く価値は十分あると思う。
八甲田丸を見学したあと、私はワ・ラッセに向かった。
実は、八甲田丸とワ・ラッセの入場券がセットになった二館共通券がある。今回はこれを利用した。
八甲田丸からワ・ラッセは目と鼻の先である。
ワ・ラッセは、特徴的な赤い建造物で、いや、建物自体が赤いのではなく、赤い柱のようなものが建物を覆っている。
今回ワ・ラッセに訪れるのは2回目で、1回目訪れた時はどこが入り口かわからなかった。
2階に上がり、受付で八甲田丸で買った共通入場券を提示し、中へ。
まずは、ねぶたが誕生した背景について学ぶため、ねぶたの歴史を青森県、そして日本の歴史とともに学ぶ。
ねぶたの起源にはいろいろあって、奈良時代に中国から伝来してきた説や、津軽の色々な習俗が重なり合って出来たとされる説など不明な点が多いらしい。
江戸時代や明治には既に存在が確認されており、しかしたびたび禁止令が出されたらしい。
昭和に入り、戦時中にも禁止されたが、戦況悪化による戦意高揚のため、一時は解禁されることもあった。
記憶していることだけを述べたが、ワ・ラッセでは更に詳しい説明があったため、自分の目で確かめて欲しい。
以上の説明が終わると、大きな展示スペースに移る。
まず最初に現れたのはこのねぶた。
恐ろしい姿の髑髏と、妖艶な滝夜叉姫が印象的である。
滝夜叉姫は、平将門の娘だった五月姫が怨念を募らせた姿だという。
左の人物は大宅太郎光圀というらしい。
「がしゃどくろ」を題材にした作品。
このように、ねぶたには一つ一つ昔話や逸話をモチーフにしたバッググラウンドがある。
見るだけでももちろん大迫力で面白いが、こういう側面から見てみても興味深い。
次。
坂上田村麻呂は蝦夷の棟梁である高丸に襲われ、それを射殺した。
が、亡霊となって再び現れ、襲いかかる。亡霊をさらに太刀でぬき斬ると、近くの沼に落ち、その沼は血でみるみるうちに赤く染まったという。
その沼をそれより「赤沼」と呼び、いつからか大きな蟹が住まうようになった。
わかりづらいが、後ろに蟹が鋏を上げて佇んでいるのがわかる。
祭り本番、多くのねぶたには、企業名や団体の入ったプレートがつく。
NTTグループだったり、ヤマト運輸だったり、はたまた自衛隊だったり。
これは、企業がねぶた制作の資金を応援し、ねぶた祭にスポンサーとして参加しているためだ。
それほど大きな祭りだということが伺える。
どんどん行こう、次はこちら。
写真が悪いが、左側にいるのは、鯰(ナマズ)である。
古くから、大きな地震は鯰が荒れ騒いでいるせいだと信じられていた。
鹿島神はその鯰の頭を押さえつけ、地震を鎮めると言われる。
最後は、私が今年最も気に入ったねぶたで、更に今年の大賞をとったねぶた。
紅葉の美しい山中で、宴を催していた侍女の傍らを、平維茂が通りかかる。
これに誘われた維茂は、酒を勧められ、そのまま酔いつぶれて眠ってしまう。
その夢の中で、この侍女が戸隠山の鬼女に化けた姿であることを告げられ、神剣を授けられる。
夢から覚めた維茂に鬼女は襲いかかるが、激しい戦いの末、与えられた神剣で鬼女を退治した。
「紅葉伝説」がモチーフのこのねぶたは、初の女性ねぶた師である北村麻子さんが手掛けた。
ワ・ラッセの中でも、鮮やかな赤を全身にまとったねぶたは隅から隅まで繊細な作りで、紅葉の一枚一枚が鬼女との激しい戦いのワンシーンを盛り上げている。
ワ・ラッセでは現在、この4台の大型ねぶたが展示されている。
訪問当時、館内には会議室を利用した暗室が用意され、以下のようなねぶたが展示されていた。
いずれも2メートルに満たないものだったが、床に直接置かれ、至近距離から鑑賞することができた。
また、ねぶた囃子の演奏体験や、ねぶたの紙貼体験なども行われており、擬似的にねぶた祭を体験できる。
8月の数日間という短い期間に開催される、儚いお祭りではあるが、このように通年を通して身近にねぶたに触れられるのはとてもありがたい。
駅から歩いてすぐという立地も、観光者にとっては気軽に訪れることができるため、八甲田丸やアスパムなどと共に、青森ベイエリアを更に盛り上げてほしいと思う。
この日は、これにて帰宅した。
青森滞在も残り2日となった。明日以降の予定に胸を膨らませながら帰路を辿った。
翌日は三内丸山方面に足を伸ばした。こちらも記事にするのでぜひ見て欲しい。
以上。
青森 2017夏 -3日目 八甲田丸-
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、東北本線及び奥羽本線の終点である青森駅と、津軽海峡を隔てた北海道、函館本線の起点である函館駅とを結んでいた鉄道連絡船。鉄道国有化直後の国鉄により開設され、国鉄分割民営化後、間もなく開業した青函トンネルにその役割を譲って終航した。
八甲田丸は、そんな青函連絡船としての役目を終え、海上博物館として利用され、保存されている、"青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸"である。
八甲田丸は今もなお海に浮いている。船舶検査を受けるため、1年に1度休館する、立派な船である(動きはしないが)。
私が生まれる前から、青森駅、青森ベイブリッジ、アスパムなどとともに存在している施設だ。
青森駅にほど近い岸壁に鎮座する黄色と白の巨大な船体のそれは、物心ついた時から知っている。
時々聞こえてくる、時代錯誤な鈍く低く響く汽笛もまた、八甲田丸という存在を際立たせる。
青森駅に降り立つと、それは駅に行くと列車を見れるような、そんな当たり前の事象のように、八甲田丸はいつもそこにいた。
ただ、その外観は目に焼き付いているが、その中身についての記憶はいっさいなかった。
私はあまり幼いころの思い出について記憶が良いほうではない。
しかし、青森という東京から何百キロも離れた、どちらかというと非日常的な光景のある土地のことはある程度覚えていた。
青森駅舎も、ねぶた祭も、三内丸山も、浅虫も、合浦公園も。函館のことも覚えている。
記憶がないってことはそんなに大したところじゃないんだろう。
8月16日、午後1時ちょっと前ぐらいの私はそんな心境で、八甲田丸に入船した。
船内で入場券を購入。順路通りに進む。
最初の展示では、人形によって青函航路が生きていた時代の人々が再現されていた。
それらをカメラに収めるのを忘れた。魚とか果物とかを売りさばく人々が列車や船を使っていたという説明だった。
このフロアは主に青函航路における背景についての説明であった。当時の人々の暮らしや品々を間近で見ることができ、歴史の苦手な私にもわかりやすかった。
その中でも個人的に魅かれたのがこれ。
青森駅を何時に出て、どの路線を経由してどこへ向かうか、が書いてある、ただそれだけ。
接続線名や、等級の記述など、見ていて飽きないのである。
青森発の東京行き列車なんて、かつての上野東京ラインを具現している。
今は亡き塩釜線や江差線の表記もある。
このような案内板が他にも数枚見受けられ、食い入るように見ていた。
他には、特急列車のような船内の座席がそのまま置いてあった。リクライニングもできた。
実際に使われていた案内板たちも展示されていた。
そのまま寝台列車に使えそうなものもある。
順路を先に進む。
甲板に、つまり外に出た。
非常に風が強く、危うく柵を超えて海に落とされそうなほどであった。
強風に対抗しながら、JNRマークが書かれている展望台に上がる。
ここでやっと、いつも眺めていた八甲田丸に乗っているということを実感した。
素晴らしい開放感に浸ることができた。風が強くなければよかったなぁ。
一通り甲板を一周し、再び船内に戻った。
エレベーターで1階まで降下する。
1階と言っても、地上の1階とはわけが違う。ここは海の上、さらには青函連絡船である。
そう、青函連絡船は列車(主に貨車)を積み込む船である。
そのための連結器があった。
そして。
貨車があった。
これは荷物室と郵便室の両方を備えた郵便車。
なんと、ディーゼルカーである。旅客車両までもが積まれていた。
そう、1階は車両甲板、貨車や気動車が所狭しと展示してあった。
他にも。
鉄道は好きだが知識は乏しい私でも、それぞれに解説が添えてあり、勉強になった。
そもそも、ここにある車両すべて初めてお目にかかるものばかりであった。
そのどれもが現在では貴重な車両であるのは言うまでもない。
今は固く閉ざされているが、当時はこれを開いて列車を出し入れしていたという。
この線路は、前記事の画像に続いているものと思われる。
さて、順路を追おう。
今度はさらに降下して、地下1階。
ここには、エンジンルームがあった。
この先には。
私は理系であっても機械系ではないので全くよくわからないが、これが動力らしい。
とても重厚でメカニカルな一昔前の技術、といったような風貌であった。
こんな部屋がいくつも続いているのである。
船が動くとなると、これらが一斉に動き出すわけであるから、当時は熱気が半端ではなかったということが予想できる。
船内の展示は以上であった。
所要時間としては1時間半程度。後の予定に合わせて若干早めに動いたため、じっくり見るとなると、さらに時間がかかりそうだ。
北海道新幹線が青函トンネルによって新函館北斗まで開通してから1年半が経った。
ほんの少し前までは、そこを在来線が駆け抜けていた。
鉄道ファンにとって、その時代に本州と北海道を結んでいた寝台列車の思い入れは強い。
その寝台列車までもが存在しなかった時代。
遠い遠い昔のことではあるが、青函トンネルすらなかった時代を、その時代から見つめてきたこの船に乗れば体感することができる。
非常に貴重な博物館だ、八甲田丸。
八甲田丸を降りてからは、ワラッセに向かうことにした。
その様子は次項で。
以上。
青森 2017夏 -3日目-
三日坊主と呼ばれる人間であれど、ことの初めの一日はひどく奮起するものである。
三日坊主とは熱しやすく冷めやすいのである。
8月16日、東京在住の私はこのとき、青森にいた。
14日から1週間、両親の実家に帰っていたからである。
14日と15日のことは今はもうどこかへ置いてきたブログに書いたため、詳しくは書かない。ネットの海を漂えばおそらくどこかには落ちてあると思う。
青森に帰って3日目の時点から書きたいと思う。
昼前に起きた私はおばあちゃんが作ってくれた朝食と昼食が兼用になった温かいご飯を食べながら、今日はどうしようかと思考した。
14日は東京から青森への移動で一日を使ったため市街地を歩いて散策しただけであった。
15日はいとこに会いに一日中弘前にいた。
ゆっくりご飯を食べていたら時刻は正午過ぎ。遠くに出かけることをあきらめた。
幼いころからよく訪れていた青森だが、高校の丸3年間と大学の初め2年間は東京に引きこもっていた。
ほとんど青森という土地を忘れていた大学3年の冬、なんとなく数年ぶりに訪れた。
このときより、久しぶりの青森に魅せられ、以降タイミングが合うたびに青森に帰っている。
あ、そういえば、まだ八甲田丸に行っていない。
弘前や田舎館といった遠くにばかり目を取られて、近場を攻めるのことを忘れていた。
小学生か、幼稚園の頃の記憶を掘り起こし、再訪する。
次項で八甲田丸内部を見せます。
以上。