青森 2017夏 -3日目 ワ・ラッセ-
八甲田丸の記事から時間が空いてしまったため、これまでの紹介から。
青森に帰省(正確には帰省ではないが)して3日目以降の出来事をまとめている。
これらにも目を通してもらえたら幸いだ。
それでは、3日目の八甲田丸を訪れた後からまとめていく。
"じゃわめぐ"という津軽弁がある。
標準語で、"血が騒ぐ"という意味だ。
私は青森県出身でも、青森県在住でもない、ただの県外の人間である。
津軽弁は聞き取れても、話すことはできない。
幼いころから知っていて、愛着もある土地ではあるが、やはりただの一東京人に過ぎない。
ただ、どうしても、ねぶたの話になると、そんなことを言ってられなくなる。
ねぶた祭が近づくと、"血が騒ぐ"のではなく、"じゃわめぐ"。
"ねぶた成分"を摂取したくて堪らなくなるのである。
東北三大祭りの一つに数えられる「青森ねぶた祭」は、毎年8月2日から7日まで行われる。
高校生になるまで、夏休みの半分以上を青森で過ごしてきた私は、毎年必ずねぶた祭に参加していた。
2日から6日までは市街を練り歩く通常運行、7日の最終日にはねぶたは船に乗せられ、海の上で運行する。
海上運行と同時に大きな花火も打ち上げられ、まだまだ8月の上旬だというのに、これを目の当たりにすると、夏も折り返し、日に日に季節が秋に近づくという気がする。
私が青森に帰らなくなる前までは、ねぶた祭を見るためにはこの8月2日から7日まで青森にいるしかなかった。
通年でねぶたを見ることができる「ねぶたの里」という施設も存在したが、市街地からは遠く、昔連れてこられた覚えがあるがほとんど記憶にない(今調べて知ったのだが、ねぶたの里は2013年に閉業したという)。
2011年に開業した「ねぶたの家 ワ・ラッセ」は、駅から徒歩圏内でねぶた祭に触れることのできる観光施設だ。
このワ・ラッセのおかげで、ねぶた祭の時期を外しても通年ねぶた祭を楽しむことができるようになった。
今回の青森帰省は、惜しくも8月の中旬となった。ねぶた祭りの時期からは外れてしまう。
正直、ねぶた祭に合わせて帰省の予定を組みたかったのだが、スケジュールが合わなかったのだ。
去年も同じようにねぶたの時期に帰れずじまいだった。今年こそはと思ったのだが、やはり8月の上旬というのは難しくなってしまった。
こういうとき、私は少しでも"ねぶた成分"を摂取するため、このワ・ラッセに入り浸る。
ワ・ラッセでは、ねぶた祭の歴史を学ぶことができる施設である。
その上で、その年に賞を受賞したねぶたが数台展示される。
基本、ねぶたというのはねぶた祭が終わると解体されてしまう。それをここで保存し、その年にねぶたを見ることができなかった観光客向けに公開している。
また、ワ・ラッセでは、ねぶた展示のみではなく、1日に数回、ねぶた囃子の実演が行われる。
これがまた素晴らしく、生のねぶた囃子というのはどこでも聞けるわけではないため、非常に貴重な体験になる。
正直な話、本番のねぶた祭以上の臨場感には到底及ばない。だが、それでも聴く価値は十分あると思う。
八甲田丸を見学したあと、私はワ・ラッセに向かった。
実は、八甲田丸とワ・ラッセの入場券がセットになった二館共通券がある。今回はこれを利用した。
八甲田丸からワ・ラッセは目と鼻の先である。
ワ・ラッセは、特徴的な赤い建造物で、いや、建物自体が赤いのではなく、赤い柱のようなものが建物を覆っている。
今回ワ・ラッセに訪れるのは2回目で、1回目訪れた時はどこが入り口かわからなかった。
2階に上がり、受付で八甲田丸で買った共通入場券を提示し、中へ。
まずは、ねぶたが誕生した背景について学ぶため、ねぶたの歴史を青森県、そして日本の歴史とともに学ぶ。
ねぶたの起源にはいろいろあって、奈良時代に中国から伝来してきた説や、津軽の色々な習俗が重なり合って出来たとされる説など不明な点が多いらしい。
江戸時代や明治には既に存在が確認されており、しかしたびたび禁止令が出されたらしい。
昭和に入り、戦時中にも禁止されたが、戦況悪化による戦意高揚のため、一時は解禁されることもあった。
記憶していることだけを述べたが、ワ・ラッセでは更に詳しい説明があったため、自分の目で確かめて欲しい。
以上の説明が終わると、大きな展示スペースに移る。
まず最初に現れたのはこのねぶた。
恐ろしい姿の髑髏と、妖艶な滝夜叉姫が印象的である。
滝夜叉姫は、平将門の娘だった五月姫が怨念を募らせた姿だという。
左の人物は大宅太郎光圀というらしい。
「がしゃどくろ」を題材にした作品。
このように、ねぶたには一つ一つ昔話や逸話をモチーフにしたバッググラウンドがある。
見るだけでももちろん大迫力で面白いが、こういう側面から見てみても興味深い。
次。
坂上田村麻呂は蝦夷の棟梁である高丸に襲われ、それを射殺した。
が、亡霊となって再び現れ、襲いかかる。亡霊をさらに太刀でぬき斬ると、近くの沼に落ち、その沼は血でみるみるうちに赤く染まったという。
その沼をそれより「赤沼」と呼び、いつからか大きな蟹が住まうようになった。
わかりづらいが、後ろに蟹が鋏を上げて佇んでいるのがわかる。
祭り本番、多くのねぶたには、企業名や団体の入ったプレートがつく。
NTTグループだったり、ヤマト運輸だったり、はたまた自衛隊だったり。
これは、企業がねぶた制作の資金を応援し、ねぶた祭にスポンサーとして参加しているためだ。
それほど大きな祭りだということが伺える。
どんどん行こう、次はこちら。
写真が悪いが、左側にいるのは、鯰(ナマズ)である。
古くから、大きな地震は鯰が荒れ騒いでいるせいだと信じられていた。
鹿島神はその鯰の頭を押さえつけ、地震を鎮めると言われる。
最後は、私が今年最も気に入ったねぶたで、更に今年の大賞をとったねぶた。
紅葉の美しい山中で、宴を催していた侍女の傍らを、平維茂が通りかかる。
これに誘われた維茂は、酒を勧められ、そのまま酔いつぶれて眠ってしまう。
その夢の中で、この侍女が戸隠山の鬼女に化けた姿であることを告げられ、神剣を授けられる。
夢から覚めた維茂に鬼女は襲いかかるが、激しい戦いの末、与えられた神剣で鬼女を退治した。
「紅葉伝説」がモチーフのこのねぶたは、初の女性ねぶた師である北村麻子さんが手掛けた。
ワ・ラッセの中でも、鮮やかな赤を全身にまとったねぶたは隅から隅まで繊細な作りで、紅葉の一枚一枚が鬼女との激しい戦いのワンシーンを盛り上げている。
ワ・ラッセでは現在、この4台の大型ねぶたが展示されている。
訪問当時、館内には会議室を利用した暗室が用意され、以下のようなねぶたが展示されていた。
いずれも2メートルに満たないものだったが、床に直接置かれ、至近距離から鑑賞することができた。
また、ねぶた囃子の演奏体験や、ねぶたの紙貼体験なども行われており、擬似的にねぶた祭を体験できる。
8月の数日間という短い期間に開催される、儚いお祭りではあるが、このように通年を通して身近にねぶたに触れられるのはとてもありがたい。
駅から歩いてすぐという立地も、観光者にとっては気軽に訪れることができるため、八甲田丸やアスパムなどと共に、青森ベイエリアを更に盛り上げてほしいと思う。
この日は、これにて帰宅した。
青森滞在も残り2日となった。明日以降の予定に胸を膨らませながら帰路を辿った。
翌日は三内丸山方面に足を伸ばした。こちらも記事にするのでぜひ見て欲しい。
以上。
上野駅-青森駅間鈍行同日着ルート考察 -常磐線竜田駅-富岡駅間運転再開による変化-
2017年11月7日 追記:ごめんなさい。下りの仙山線経由を忘れていました。付け足しておきます。
2011年3月11日の東日本大震災で、常磐線は大きな被害を受け、現在も少しずつ復旧作業が行われている。今回の運転再開もその1つである。*1
しかし、未だ富岡駅-浪江駅間は不通となっており、現在も代行バスでの輸送が行われている。
一刻も早い、常磐線全線の営業再開が待ち望まれている。
今回、運転が再開された竜田-富岡間も、不通だった時期は、代行バスを使って、駅と駅を繋いでいた。
竜田から富岡はたった1駅。
実は、この1駅間の運転が再開されたおかげで、常磐線を乗り継いで行く、青春18きっぷを使った東京-青森間の同日着が可能になった。
とは言っても、そもそも、殆どの人は鈍行で東京-青森間を移動しようなんて思わないだろう。
さらに、仮に鈍行で移動するにしても、常磐線を経由しないで行けるルートも存在するので、正直、18きっぷを使うことに対してはメリットはほぼない。
事実として、常磐線を経由して、1日で移動できるというだけ。
2017年11月7日現在、東京-青森を同日着で移動できるルートを以下にまとめる。
なお、青森-八戸-盛岡経由である、青い森鉄道線とIGRいわて銀河鉄道線(旧東北本線)を用いたルートは、掲載しないこととする(青春18きっぷに加え、3000円以上の別途運賃が必要になるため)。しかし、ショートカットとして利用するのも一つの手である。参考にされたし。
下り(上野→青森)
- 高崎・上越・信越・白新・羽越・奥羽経由
上野 0513 → (高崎線) → 高崎 0655
高崎 0712 → (上越線) → 水上 0817
水上 0824 → (上越線) → 長岡 1020
長岡 1027 → (信越本線) → 新潟 1127
新潟 1143 → (白新線) → 村上 1257
村上 1331 → (羽越本線) → 酒田 1556
酒田 1630 → (羽越本線) → 秋田 1819
秋田 1831 → (奥羽本線) → 大館 2002
大館 2120 → (奥羽本線) → 青森 2250 - 東北・花輪・奥羽経由
上野 0510 → (宇都宮線) → 宇都宮 0651
宇都宮 0659 → (宇都宮線) → 黒磯 0749
黒磯 0754 → (東北本線) → 新白河 0818
新白河 0821 → (東北本線) → 郡山 0903
郡山 0925 → (東北本線) → 福島 1011
福島 1040 → (東北本線) → 仙台 1156
仙台 1245 → (東北本線) → 小牛田 1330
小牛田 1343 → (東北本線) → 一ノ関 1429
一ノ関 1443 → (東北本線) → 盛岡 1611
盛岡 1803 → (IGRいわて銀河鉄道線※/花輪線) → 大館 2052
大館 2120 → (奥羽本線) → 青森 2250 - 東北・仙山・奥羽経由
上野 0510 → (宇都宮線) → 宇都宮 0651
宇都宮 0659 → (宇都宮線) → 黒磯 0749
黒磯 0754 → (東北本線) → 新白河 0818
新白河 0821 → (東北本線) → 郡山 0903
郡山 0925 → (東北本線) → 福島 1011
福島 1040 → (東北本線) → 仙台 1156
仙台 1211 → (仙山線) → 羽前千歳 1326
羽前千歳 1339 → (奥羽本線) → 新庄 1442
新庄 1538 → (奥羽本線) → 秋田 1811
秋田 1831 → (奥羽本線) → 大館 2002
大館 2120 → (奥羽本線) → 青森 2250 - 常磐・東北・花輪・奥羽経由(NEW)
上野 0510 → (常磐線) → 水戸 0658
水戸 0718 → (常磐線) → 富岡 1000
富岡 1015 → (常磐線代行バス) → 原ノ町 1125
原ノ町 1150 → (常磐線) → 仙台 1210
仙台 1331 → (東北本線) → 小牛田 1416
小牛田 1451 → (東北本線) → 一ノ関 1539
一ノ関 1546 → (東北本線) → 盛岡 1716
盛岡 1803 → (IGRいわて銀河鉄道線※/花輪線) → 大館 2052
大館 2120 → (奥羽本線) → 青森 2250
上り(青森→上野)
- 奥羽・東北経由
青森 0542 → (奥羽本線) → 弘前 0622
弘前 0626 → (奥羽本線) → 秋田 0839
秋田 1015 → (奥羽本線) → 新庄 1256
新庄 1418 → (奥羽本線) → 山形 1532
山形 1532 → (奥羽本線) → 米沢 1717
米沢 1744 → (奥羽本線) → 福島 1830
福島 1850 → (東北本線) → 新白河 2023
新白河 2026 → (東北本線) → 黒磯 2050
黒磯 2056 → (宇都宮線) → 宇都宮 2148
宇都宮 2150 → (宇都宮線) → 上野 2338 - 奥羽・北上・東北経由
青森 0542 → (奥羽本線) → 弘前 0622
弘前 0626 → (奥羽本線) → 秋田 0839
秋田 0912 → (奥羽本線) → 横手 1028
横手 1043 → (北上線) → 一ノ関 1254
一ノ関 1354 → (東北本線) → 小牛田 1441
小牛田 1453 → (東北本線) → 仙台 1540
仙台 1606 → (東北本線) → 福島 1720
福島 1724 → (東北本線) → 新白河 1903
新白河 1918 → (東北本線) → 黒磯 1941
黒磯 1951 → (宇都宮線) → 宇都宮 2042
宇都宮 2049 → (宇都宮線) → 上野 2232 - 奥羽・花輪・東北経由
青森 0704 → (奥羽本線) → 大館 0837
大館 0917 → (花輪線/IGRいわて銀河鉄道線※) → 盛岡 1215
盛岡 1308 → (東北本線) → 一ノ関 1438
一ノ関 1441 → (東北本線) → 小牛田 1528
小牛田 1542 → (東北本線) → 仙台 1630
仙台 1701 → (東北本線) → 福島 1822
福島 1850 → (東北本線) → 新白河 2023
新白河 2026 → (東北本線) → 黒磯 2050
黒磯 2056 → (宇都宮線) → 宇都宮 2148
宇都宮 2150 → (宇都宮線) → 上野 2338 - 奥羽・北上・東北・常磐経由(NEW)
青森 0542 → (奥羽本線) → 弘前 0622
弘前 0626 → (奥羽本線) → 秋田 0839
秋田 0912 → (奥羽本線) → 横手 1028
横手 1043 → (北上線) → 一ノ関 1254
一ノ関 1354 → (東北本線) → 小牛田 1441
小牛田 1453 → (東北本線) → 仙台 1540
仙台 1617 → (常磐線) → 原ノ町 1741
原ノ町 1833 → (常磐線) → 浪江 1852
浪江 1915 → (常磐線代行バス) → 富岡 1945
富岡 2009 → (常磐線) → いわき 2048
いわき 2052 → (常磐線) → 日立 2150
日立 2208 → (常磐線) → 取手 2350
取手 2355 → (常磐線) → 上野 0036 - 奥羽・花輪・東北・常磐経由(NEW)
青森 0704 → (奥羽本線) → 大館 0837
大館 0917 → (花輪線/IGRいわて銀河鉄道線※) → 盛岡 1215
盛岡 1308 → (東北本線) → 一ノ関 1438
一ノ関 1441 → (東北本線) → 小牛田 1528
小牛田 1542 → (東北本線) → 仙台 1630
仙台 1655 → (常磐線) → 原ノ町 1820
原ノ町 1833 → (常磐線) → 浪江 1852
浪江 1915 → (常磐線代行バス) → 富岡 1945
富岡 2009 → (常磐線) → いわき 2048
いわき 2052 → (常磐線) → 日立 2150
日立 2208 → (常磐線) → 取手 2350
取手 2355 → (常磐線) → 上野 0036
※IGRいわて銀河鉄道線内である盛岡駅-好摩駅間は別途運賃(650円)が必要。
これを見ると、上野-仙台間は東北本線、常磐線どちらの経路を選んでも仙台から、もしくは仙台までのダイヤに変更は見られないことがわかった。
(追記)↑上り仙山線経由のみ、仙台において乗り継ぎ時間1分のため、常磐線の経由は不可能でした。
また、10月14日に行われたダイヤ改正による黒磯-郡山間における新白河駅での輸送体系の変更は、この同日着ルートには影響を及ぼさないことがわかった。
黒磯-福島間のロングシート地獄もe531系0番代の導入によって一部セミクロス車に置き換えられ快適性も増した。宇都宮-黒磯間のロングシートはそのままだが。
今年の冬はおそらく新幹線で青森に行くことになるとは思うが、それ以降、機会があったら、18きっぷを使って、常磐線経由で青森へ行ってみたいと思う。
以上。
母校の小学校
ちょっと前の選挙のときのこと。
投票所が家からほど近い小学校、我が母校であった。
当日は台風が迫る夕方で、強い雨が降っていた。
わずかの道のりを傘を差して歩き、かつての通学路を懐かしむ暇もなく正門に到着した。
正門から校舎に入り、教員用の昇降口を抜け、再び外に出てから、児童用の昇降口に入る。
受付で手続きを済ませ、小学1年生か2年生の頃の教室を横目に、投票が行われている家庭科室に入る。
成人してからこの校舎に入るのは2度めか3度めか。
6年間、毎日通った校舎は、ミニチュアみたいで、数度入っただけじゃ全然慣れなかった。
数分で投票を終え、右手に校長室と職員室、左手に給食室のある通路を歩いて出口に向かう。
ふと気になって、職員室前に貼られた掲示を見てみた。
学校だよりや保健室からのお知らせなどと共に、クラスごとの様子を知らせた藁半紙が貼られていた。
それは、全部で6枚だった。
各学年1クラスずつしかなかった。
私の頃は、たしか12枚はあったはずだ。
各学年2クラスずつあって、12枚。
つまりは、児童数が半分になっていた。
なんていうか、これを見て、子供が少ない世の中だって変に実感してしまった。
下駄箱の上履きの数が、校舎を急に、割に大きく見せた。
徳永英明と今井美樹
平成7年生まれの私は今井美樹という歌手をリアルタイムでは知らない。
今井美樹を知ったのは、しかも今井美樹そのものからではなく、別のアーティストを経由して、である。
徳永英明のカバーアルバムが一昔前に一時期流行った。「VOCALIST」と呼ばれるカバーアルバムである。
当時は、私自身そのベストに特に興味はなかったが、母親がよくCDを流して知っていた。
何年も経った今でも、まだ覚えている。
徳永英明のオリジナル曲を殆ど知らないのに、徳永英明がカバーした曲をよく知っているというのはなんとなく失礼な気がするが、それらがよく耳に馴染んだということだろう。
中学生の終わりあたりからJ-POPに興味を失い、いわゆる"オタク"と呼ばれるものになりアニメやらゲームに熱中した。
それは大学に入学するまで続いたが、それ以降は次第に興味が薄れていき、間もなく完全に覚めた。
今度は当時とは反対に、アニメやゲームの流行についていけなくなったのだ。
それからは、手当たり次第に色々なアーティストの曲を聴いていたが、どれも微妙だった。
そんなとき、先述の徳永英明の「VOCALIST」を見つけ、聴いた。
そのどれもが、私がまだ生まれる前の曲だったが、徳永英明が間に入って、そんな曲を私にとっての"懐かしい曲"にしてくれた。
中でも、今井美樹の『PRIDE』は強く響いた。
いくら聴いても飽きない、そして、いつまでも懐かしい、そんな曲だった。
それから、今井美樹のアルバムを、聴いたことのない曲を漁った。
『PIECE OF MY WISH』や『Miss You』など、当時流行ったという曲を聴いた。
私にとってはどれも新鮮だった。
私にとっては新曲だけれども、世間にとっては過去の曲、というのがなんとなく寂しかった。
そんな曲が、しかし心地よかった。
今、今井美樹がカバーした松任谷由実の『シンデレラ・エクスプレス』を聴いて、これを書いている。
この曲は、JR東海が1987年と1992年に展開していた東海道新幹線のCMの起用曲である。*1
ただ、こうやってひたすら過去の曲を聴いて、懐古をしたいだけなのかもしれない。本当は懐かしくないのに。
槇原敬之 『どんなときも。』
"昔は良かったね"と いつも口にしながら
生きて行くのは 本当に嫌だから
カラオケでこれを歌うとき、いつもこのフレーズで、何とも言えない気持ちになる。
青森 2017夏 -3日目 八甲田丸-
青函連絡船(せいかんれんらくせん)は、1908年(明治41年)から1988年(昭和63年)までの間、東北本線及び奥羽本線の終点である青森駅と、津軽海峡を隔てた北海道、函館本線の起点である函館駅とを結んでいた鉄道連絡船。鉄道国有化直後の国鉄により開設され、国鉄分割民営化後、間もなく開業した青函トンネルにその役割を譲って終航した。
八甲田丸は、そんな青函連絡船としての役目を終え、海上博物館として利用され、保存されている、"青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸"である。
八甲田丸は今もなお海に浮いている。船舶検査を受けるため、1年に1度休館する、立派な船である(動きはしないが)。
私が生まれる前から、青森駅、青森ベイブリッジ、アスパムなどとともに存在している施設だ。
青森駅にほど近い岸壁に鎮座する黄色と白の巨大な船体のそれは、物心ついた時から知っている。
時々聞こえてくる、時代錯誤な鈍く低く響く汽笛もまた、八甲田丸という存在を際立たせる。
青森駅に降り立つと、それは駅に行くと列車を見れるような、そんな当たり前の事象のように、八甲田丸はいつもそこにいた。
ただ、その外観は目に焼き付いているが、その中身についての記憶はいっさいなかった。
私はあまり幼いころの思い出について記憶が良いほうではない。
しかし、青森という東京から何百キロも離れた、どちらかというと非日常的な光景のある土地のことはある程度覚えていた。
青森駅舎も、ねぶた祭も、三内丸山も、浅虫も、合浦公園も。函館のことも覚えている。
記憶がないってことはそんなに大したところじゃないんだろう。
8月16日、午後1時ちょっと前ぐらいの私はそんな心境で、八甲田丸に入船した。
船内で入場券を購入。順路通りに進む。
最初の展示では、人形によって青函航路が生きていた時代の人々が再現されていた。
それらをカメラに収めるのを忘れた。魚とか果物とかを売りさばく人々が列車や船を使っていたという説明だった。
このフロアは主に青函航路における背景についての説明であった。当時の人々の暮らしや品々を間近で見ることができ、歴史の苦手な私にもわかりやすかった。
その中でも個人的に魅かれたのがこれ。
青森駅を何時に出て、どの路線を経由してどこへ向かうか、が書いてある、ただそれだけ。
接続線名や、等級の記述など、見ていて飽きないのである。
青森発の東京行き列車なんて、かつての上野東京ラインを具現している。
今は亡き塩釜線や江差線の表記もある。
このような案内板が他にも数枚見受けられ、食い入るように見ていた。
他には、特急列車のような船内の座席がそのまま置いてあった。リクライニングもできた。
実際に使われていた案内板たちも展示されていた。
そのまま寝台列車に使えそうなものもある。
順路を先に進む。
甲板に、つまり外に出た。
非常に風が強く、危うく柵を超えて海に落とされそうなほどであった。
強風に対抗しながら、JNRマークが書かれている展望台に上がる。
ここでやっと、いつも眺めていた八甲田丸に乗っているということを実感した。
素晴らしい開放感に浸ることができた。風が強くなければよかったなぁ。
一通り甲板を一周し、再び船内に戻った。
エレベーターで1階まで降下する。
1階と言っても、地上の1階とはわけが違う。ここは海の上、さらには青函連絡船である。
そう、青函連絡船は列車(主に貨車)を積み込む船である。
そのための連結器があった。
そして。
貨車があった。
これは荷物室と郵便室の両方を備えた郵便車。
なんと、ディーゼルカーである。旅客車両までもが積まれていた。
そう、1階は車両甲板、貨車や気動車が所狭しと展示してあった。
他にも。
鉄道は好きだが知識は乏しい私でも、それぞれに解説が添えてあり、勉強になった。
そもそも、ここにある車両すべて初めてお目にかかるものばかりであった。
そのどれもが現在では貴重な車両であるのは言うまでもない。
今は固く閉ざされているが、当時はこれを開いて列車を出し入れしていたという。
この線路は、前記事の画像に続いているものと思われる。
さて、順路を追おう。
今度はさらに降下して、地下1階。
ここには、エンジンルームがあった。
この先には。
私は理系であっても機械系ではないので全くよくわからないが、これが動力らしい。
とても重厚でメカニカルな一昔前の技術、といったような風貌であった。
こんな部屋がいくつも続いているのである。
船が動くとなると、これらが一斉に動き出すわけであるから、当時は熱気が半端ではなかったということが予想できる。
船内の展示は以上であった。
所要時間としては1時間半程度。後の予定に合わせて若干早めに動いたため、じっくり見るとなると、さらに時間がかかりそうだ。
北海道新幹線が青函トンネルによって新函館北斗まで開通してから1年半が経った。
ほんの少し前までは、そこを在来線が駆け抜けていた。
鉄道ファンにとって、その時代に本州と北海道を結んでいた寝台列車の思い入れは強い。
その寝台列車までもが存在しなかった時代。
遠い遠い昔のことではあるが、青函トンネルすらなかった時代を、その時代から見つめてきたこの船に乗れば体感することができる。
非常に貴重な博物館だ、八甲田丸。
八甲田丸を降りてからは、ワラッセに向かうことにした。
その様子は次項で。
以上。
青森 2017夏 -3日目-
三日坊主と呼ばれる人間であれど、ことの初めの一日はひどく奮起するものである。
三日坊主とは熱しやすく冷めやすいのである。
8月16日、東京在住の私はこのとき、青森にいた。
14日から1週間、両親の実家に帰っていたからである。
14日と15日のことは今はもうどこかへ置いてきたブログに書いたため、詳しくは書かない。ネットの海を漂えばおそらくどこかには落ちてあると思う。
青森に帰って3日目の時点から書きたいと思う。
昼前に起きた私はおばあちゃんが作ってくれた朝食と昼食が兼用になった温かいご飯を食べながら、今日はどうしようかと思考した。
14日は東京から青森への移動で一日を使ったため市街地を歩いて散策しただけであった。
15日はいとこに会いに一日中弘前にいた。
ゆっくりご飯を食べていたら時刻は正午過ぎ。遠くに出かけることをあきらめた。
幼いころからよく訪れていた青森だが、高校の丸3年間と大学の初め2年間は東京に引きこもっていた。
ほとんど青森という土地を忘れていた大学3年の冬、なんとなく数年ぶりに訪れた。
このときより、久しぶりの青森に魅せられ、以降タイミングが合うたびに青森に帰っている。
あ、そういえば、まだ八甲田丸に行っていない。
弘前や田舎館といった遠くにばかり目を取られて、近場を攻めるのことを忘れていた。
小学生か、幼稚園の頃の記憶を掘り起こし、再訪する。
次項で八甲田丸内部を見せます。
以上。